幻のアンコール聞こえた?

思ったことをつれづれと

『狛犬』が流れていた日

こんばんは。はじめまして。梓と申します。

本日よりこちらでブログを書いていきたいと思っております。気が向かれましたら読んでいただけると嬉しいです。

 

                                    

 

 

2月某日、父親が永眠した。

高齢で入院もしていたので覚悟していたのもあり、葬儀を済ませた後、私はすぐに仕事に戻った。今回はその時の話である。


私の仕事は平たく言えば作業であり、基本的には手足を動かすものである。もっと言ってしまえば頭で何を考えていようとも手足さえ動かせれば仕事には全く支障がない。それなりに長いことこの仕事に就いているのもあり、いつも全然仕事に関係ないことを考えたりしながら手を動かしている。

 

仕事に戻ったその日、私の頭にずっと流れていたのは、錦戸亮さんの曲『狛犬』だった。

 

少しばかり説明をすると、錦戸さんの1stアルバムである『NOMAD』に収録されている曲である。歌詞の内容は遅くまで仕事をする会社員の悲哀、といったところだろうか。聴いたことのない方はとりあえず歌詞だけでも読んでいただけるとこの先分かりやすいかとは思う。

『狛犬』錦戸亮 歌ネット

正直なことを言えば、最近は全然この曲を聴いていなかった。というのも1月に2ndアルバム『Note』が出たため、そちらばかり聴いていたからである。しかもそのアルバムの中には、よりこちらの気持ちに合うような『コノ世界ニサヨウナラ』という曲も入っていた。

それなのに、である。私の頭の中ではずっと『狛犬』が流れていた。

 

少しばかり私の父親の話をしようと思う。

父は明るい人で、サービス精神が旺盛だった。

私が子供の頃のことで強烈に覚えているエピソードがある。冬の寒い日、父親が仕事から帰宅すると私と姉を自室に呼んだ。暗い部屋で父が着ていたワイシャツを脱ぐ。そうするとワイシャツの静電気がバチバチと光り、それはなかなかに幻想的な光景だった。

父が脱いだワイシャツをくしゃくしゃと動かせば、静電気はますます大きくなり光を帯びた。私と姉はそれを静電気ショーと呼び、冬はそれを見るのを楽しみにしていたものである。おかげで私は静電気というものは楽しいものだと大人になるまで信じ切っていた。忌み嫌われるものだと知ったのは、大人になってから静電気防止スプレーのCMを見てからである。

そして大人になってから私も同じことをやろうと思ったのだが出来なかった。理由は単純で、そこまで静電気が服にたまらなかったからだ。着ている服の生地が理由なのか体質なのかは分からない。ただ、父親が私たちのために静電気をどこかで放出することもなく家まで持ってきていたのだということに大人になってから気付いた。

子供にもそういう人であったし、母親にも家族以外の人に対しても楽しませようという気持ちの強い人だったと思う。そしてアクティブでもあった。仕事は忙しかったように思うけれど、それはそれとして趣味(陸上競技)を楽しんでいた。陸上競技の大会があれば飛行機に乗って観戦に行き、定年退職してからは海外の大会にも多く足を運んでいた。今更ながら、私があちこちの現場に行くことをごく普通に当たり前のことのようにとらえていたのは父親の影響もあったのだろうなと思う。

 

何が言いたいかといえば、父親と『狛犬』の歌詞は全くリンクしない、ということである。


狛犬』の主人公は悲哀に満ちている。効率良く仕事が出来ずに残業をする羽目となって、そしてそれを残業目当てだと揶揄される。それでも毎日を必死で生きているのが歌詞に出てくる人の姿だ。正直な話、私の記憶の中にある父親とは似ても似つかない。

それでもずっと『狛犬』が流れていた。

なんでだろうと思って、ハッと気付いた。

私の父親もまた、家に帰るまでの間、『狛犬』のような気持ちを抱えていたのかもしれない、と。

 

父親は基本的に明るくサービス精神旺盛だった。少なくとも娘に見せる顔はそうだった。

とはいえ、私は基本的に父親が家にいる時の姿しか知らない。仕事をしている時の父親がどんな雰囲気なのかはほとんど知らない。もちろん職業は知っていたし職場に行ったこともあるのだが、あくまでその時も父親が私に見せる顔は父のそれだったし、第三者であったり職場の同僚の立場で見ることは一度もなかった。

もしかしたら帰りの車の中ではひどく疲労していたのかもしれない。仕事が上手くいかなくて悩んだりストレスをため込んでいたのかもしれない。自動車通勤だったから途中で飲んで発散させるわけにもいかないままやり過ごしていたのかもしれない。

そういう顔を、もしかしたら母親には見せていたのかもしれないが、少なくとも子供には見せなかったと思う(気付かなかっただけ、という可能性ももちろんあるけれど)。

ただ、父親の機嫌で理不尽に怒られた記憶はあまりない(全くないとは言わないけれど)。仕事の大変さをこちらにぶつけられたことはほぼないと言える。

だから全く気付かなかった。この年まで。私も会社員になって仕事の大変さというのは本当に身に染みて分かったというのに、かつての父親もそうだったかもしれない、ということを全く考えたこともなかったのである。

父親が亡くなって、『狛犬』が流れて、私は初めてそのことに気付かされた。

 

 

【大切なことに気付くのは、いつだってなにかが終わってしまった後】

昔読んだ漫画に書いてあって、ずっと忘れられずにいるフレーズ。

確かにそうかもしれないと思う。けれど終わってしまった後でも気付けて良かったとも思う。

そして、私はだけれども、『狛犬』がなければ気付くことはないままだったのだろうな、とも思う。

気付くことが出来て良かったし感謝もしているし、曲ってこういう効果もあるのだなと今回初めて知ったし、ありがたいなとも思う。

 

明日は月曜日だしまた一週間仕事か、と思うと憂鬱なきもちにもなるけれど、父親がきっとどこかで見守ってくれていると信じて、明日からも頑張ろうと思う。